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 ユキと出会ってから、しばし時が流れた。春の事件が終わり、アルと結ばれる切っ掛けになった研究所の調査も今では懐かしく感じてしまう。
 あれからまだひと月と経っていないのに、ずいぶん昔に思えてしまうのは、今の関係がそれほど居心地がよく、また新しい喜びに溢れているからだろう。
 例えばそれは今こうして過ごしている何気ない日常においても変わらない。
 「………………」
 リビングでソファに腰掛けたまま、アルは本をめくっている。
 僕こと椋木悠斗の部屋にある蔵書を読みつくす勢いで、最近は活字ばかり見ているようだった。
 ユキと違って漫画には手をつけず、硬めの小説ばかりなのが彼女らしい。
 今この家に住んでる住人も4人になって、僕と母さんの二人きりだった時よりもずいぶんと賑やかだ。
 「いってきます」
 リビングに顔を出したユキが、小さな鞄を手に挨拶をする。
 「いってらっしゃい。気をつけて」
 挨拶を返す僕と対照的にアルはちらりと目線を送っただけだ。
 それもいつもの事なので、ユキは挨拶を返すと軽い足取りで出かけていった。
 「……もうちょっと声掛けてあげればいいのに」
 「いいのよ。別に」
 アルは本から視線を上げずに、すげなく言う。
 僕としてはもう少し仲良くして欲しいのだが……この二人の関係は複雑だから、今はかなり改善されてる部類なのかもしれない。
 しかし、元から記憶がなく家の中で過ごしていたユキと、定位置を持たずに一人で行動していたアルだったが、今ではユキの方が外に出るようになり、アルは逆に家の中に籠るようになっている。
 行動こそ正反対だけど、やはりどこか似ている物を感じてしまう。
 「……何よ」
 僕が見てた事に気づいてか、横目に鋭く睨んでくる。
 「いや何読んでるのかなと思って」
 「…………」
 それには答えず、背表紙を向けてくる。
 アルの見せた本には『国家論』と書かれていた。
 「……そんな本、うちにあったっけ?」
 「借りてきたのよ。この家の蔵書はもう読みつくしたわ」
 「いつのまに」
 「それはどちらの意味かしら」
 「両方だよ」
 基本的に家の中にいたアルが、いつ図書館に行ったのか。
 家の中にある本はそう多くはないが、研究者だった父さんや読書家だった兄さんの物も含めて数百冊はあるだろう。
 それを全部読む時間はどこにあったのか。
 アルのスペックなら出来そうだと思うけれど、あまりの速度に愕然としてしまう。
 「人の中で暮らすのならば、人の事を知らなくてはならない……あなたが言った事だけれど、忘れたのかしら?」
 「い、いや、覚えているよ。もちろん」
 「だから人の事を知ろうと努力してあげているのよ。……あら、私って結構律儀につくすタイプなのかしらね。新しい発見だと思うのだけれど、悠斗はどう思う?」
 「……そう言われても反応に困る」
 「そう。つまらない答えね」
 からかわれてるのか本心なのか分からない、いつものやり取りをしながらもアルはページをめくる手をとめない。
 「それ……面白い?」
 「娯楽としての意味なら、特に意味のない時間ね」
 「つまり、つまらないと」
 「この手の読み物に娯楽を見出す者などいないでしょう。ただ興味深くはあるわね」
 「へぇ」
 大昔の哲学者であるプラトンが残した『国家論』。
 それ自体はとても有名な本であり、タイトルだけなら知っている人も多いと思う。僕もそうだし、中身も聞きかじり程度なら知っている。
 ……が、わざわざ読もうと思った事はない。
 「なんでアルはそれを?」
 「…………」
 そこでやっと、アルは視線を本からあげた。
 僕を横目で睨んで、少しだけ細める。
 切れ長のアルの目はそうする事で剣呑な光を帯びる。殺意にも似た迫力があるが、怒っている訳ではないようだ。
 でも心臓に悪いから止めて欲しいとは思う。
 「人と人が集まって暮らすのは家族という構成単位よね」
 「そうだけど」
 「家族同士が集まって、より大きな集団に属すると都市になるわね」
 「多分ね」
 「では、都市同士が集まって更に大きな集団になるのは何かしら」
 「……国?」
 「そういう事よ」
 それだけ言って、また本に戻る。
 「いやいや! 全然分からないからっ」
 僕の反発にアルはため息をついて、視線を向ける。
 先ほどより剣呑な光を帯びていた。
 「つまり、あなた達人類が残して語り継がれている国家の理想的な形が記されてる本と言う事よ。私たちメルクリウスは社会という物を持ってない……まあ、二人しかいないのだから持ちようがないのだけれど、人として育っていない以上、幼児期に学ぶ事も学べない。ならば書物から入るのは自然ではなくて? あなたにとっても無関係ではないのだから、少しは黙っていて欲しいものね」
 「な、なるほど」
 勢いに押されて、頷く。
 「あ、でも僕が無関係じゃないという事は」
 「…………!」
 更に強い視線を向けてくる。
 ……頬が、少しだけ赤くなっている。
 先ほどアルは人同士の構成を『家族』と呼んだ。
 つまりは……。
 「あ、ああ! なるほど……!」
 「いちいち声に出さなくていいのよ。喉を潰すわよ」
 「それは止めてくれ。本気で」
 「では大人しくしている事ね」
 それだけ言って、読書に戻る。
 僕も喉を潰されたくはないので、自分も読書をする事にした。
 
 それから一時間程経過して、アルは本を閉じて席を立った。
 「もう読み終わったんだ」
 「ええ」
 それだけ答えるとテーブルの上に本を置いて、キッチンに向かう。
 一体どんな内容だったのか気になって、手に取ってみた。
 「…………」
 中身は哲学者であるプラトンの弟子同士の対話形式で書かれてる。
 哲学者同士が理想とする物について語りあい、お互いに意見を交換している内容で記述されている。
 脚注によると、プラトン本人が残した物ではなく弟子の言葉が残ってるのを本として後世にまとめられたらしい。
 なるほど、それでこういう内容になっている訳か……。
 だが肝心の中身はさっぱりだった。
 哲学者というのもあるだろうけれど、言い回しが抽象的な所から入って、はっきりと形にするのを好まない。
 討論なのだから当然かもしれない。
 明確に提示すると、反論側はそれを否定すればいいのだから、提示側はより慎重になる。
 「興味あるのかしら?」
 アルが戻ってくる。
 僕の分のコーヒーも淹れてくれたらしく、手にカップを二つ持っていた。
 「……いや、どうだろう。アルが何に興味を持ったのかという部分は気になるけど、読み物としてはちょっと」
 先ほどアルが言っていた、娯楽としては興味が無いという理由が良く分かった。
 「ちなみにどういう部分に興味を惹かれたんだ?」
 「さぁ。単に人がどのようなモノを指針にしているのか、知識として知っておきたかっただけだから、これその物に解答を求めるつもりもなかったわ」
 「指針ねぇ」
 「例えば、この中では理想の国家という物について議論が交わされているのよ」
 「へぇ」
 大昔の哲学者が残したのだから、夢のある物なのだろうと漠然と思った。
 「この中で語られる理想の国家というのは、個人がそれぞれの才能に応じて役割を決め、一定以上の才能を持たない者を排除する所から始まるわ。優秀な者同士で子孫を残す事で、人という種の優位性を高める訳ね。教育も個人の思想といった偏りが入る前に、親から引き離して学習させるべきとあるわ。しかし不要物を排除し続けるとその連中が不満に思うから、たまにご褒美を上げて不満の声を押さえるべしとの補足付きだわ」
 「…………」
 ……なんだか夢もロマンもない、すごく偏った世界のようだった。
 というか、よく漫画やアニメであるような悪の国家そのものだ。
 「それが、理想?」
 すごく嫌な言い方をしていたんのだろう。アルは薄く笑った。
 「体現出来ないから理想というのよ。どうせ言ってる本人達も出来るなんて思ってないわ。だから極端な内容になる。ただ、それが面白いわね」
 「アルはその内容自体には特に何とも思わないんだ」
 「どうして? 思う訳がないじゃない。だって私にとっては何も珍しい事でもない……遺伝子の段階で能力を設定し、ある程度の学習は機械を通じてのインプリティング。それらの設定にエラーが出たら組成前に戻して造り直しも可能な、所属する親も国も持たない人間……メルクリウスとしては、ごく自然の事だわ」
 「あ……」
 「人は人同士では無理だと分かっていても、人工物であるのならば、それが理想的だと判断を出来る。人の才能を判断してはじくのは可哀想に思えても、機械の不良品をはじくのは別に珍しい事ではない……まあ当然よね。機械のパーツには感情も思想も生きてきた時間もないのだから、はじかれた所で材料に戻り、再び優秀な部品として再生産されるだけだもの」
 「部品ならそうかもしれないけれど」
 「まあ、人である以上無理な話よね。だからこそ、この内容は長く残ってきたのだと思うわ」
 「どうして?」
 「出来るならとうに実現しているし、検討する価値もないなら忘れられている。出来もしない理想だから、長く残り続けるのよ」
 「……なるほど」
 確かにそれは一理あるかもしれない。
 直ぐに達成できたら、また次の目標を見つけるだけだ。
 達成した事実は残るが、それは個人や集団においての物であって、世代を超えて受け継がれたりはしない。
 高校野球などで、その学校の悲願として甲子園出場が語られる場面を見た事がある。
 どこかで達成していたら、数年越しの悲願なんて物は産まれないし、野球部が無い所なら願いをもつ理由すらないのだから悲願なんてものはあり得ない。
 存在してる限り、いつかは出来るかもしれないという可能性があるから残り続ける。
 「アルが興味を持った理由は分かったけど、やっぱり内容自体に興味は持てないな……」
 「読書なんてそのようなものでしょう」
 既に読み終えた本には興味がないのか、コーヒーを片手にテレビを見ている。
 リビングにコーヒーの匂いが漂う。
 同じソファに腰掛けたアルが、少しだけ体を僕に預ける。
 触れた布越しの体温に少しだけこちらも心拍数があがりながらも、アルの軽い体重を受け止めて支える。
 ただそれだけの僅かな接触だ。
 恋人としての語らいもなければ、特別な肌の触れ合いがある訳でもない。
 けれど、安心して体の力を抜いてお互いの体重を預け合う。
 ただそれだけの事に、強い安心をおぼえる。
 「国の事は分からないけど、家族としてないがしろにされたら、それはちょっと嫌だな」
 「……唐突にどうしたのよ」
 「いや、さっき引き合いに出していたけれど、国をばらして都市が、都市をばらして家族が残るなら、やっぱり国の基盤は家族だよ。それをないがしろにしての理想は、途中を大きく飛ばしすぎだと思った」
 「だから叶う訳もない理想なのではなくて?」
 「そうなんだけど……」
 これはどう言ったらいいんだろう。
 感覚的な事だから、言葉じゃ説明しづらい。
 「こうしてアルと一緒に居られる時間がとても大切だと思うから、僕にとっては今が理想の時間なのかもしれない」
 「………………いつも思うのだけれど、悠斗はたまに唐突に赤面するような事を言うわよね」
 「そう? 思ったままを言っただけなんだけれど」
 というかアルが理想論について語らなかったら、こんな話はしないのだから、僕としては不本意だ。
 「それとも発情したのを言葉で誤魔化してるのかしら」
 「別にしてないぞ!」
 「そういう事にしておいてあげるわ」
 「言いがかりだ……」
 横目にみるとアルの真っ白い肌にも少しだけ赤みが差している。
 素直じゃないお姫様は、自分の恥ずかしさを他人に押し付ける事で誤魔化す所がある。
 ……まあ、それも含めていつもの彼女なのかもしれない。
 「今度、本を借りる時に僕も一緒に行くよ」
 「別に構わないけれど、何故?」
 「アルと外に出たことってあんまりないだろ。人目を避けるためにも、家の中に居る事も多いし……だからだよ」
 「そうでもないと思うのだけれど。悠斗がそうしたいのならば構わないわ」
 「じゃあ、僕がそうしたいから、そうさせて貰う」
 「そう」
 「ついでに帰りにどこかで買い物でもしてこようか」
 「それも、あなたがそうしたいから?」
 「そう言う事」
 はっきりと頷いて返すが、アルは少しだけ不満げに言った。
 「それでは、悠斗の要望を二つ私に押し付けただけだわ。こちらも要求する権利があるのではないかしら」
 「もちろん。アルのやりたい事があったら言って欲しい」
 「鈴の所でデザートも食べたいわね。もちろん悠斗が出すのよ」
 「わかった。じゃあその後は映画でも見てこようか」
 「構わないわ。順番から言うと、見る内容を決める権利は私にあるのよね」
 「いいよ、アルがみたい物なら何でも」
 「わかったわ。次までに調べておく。では今度は悠斗がやりたい事を言いなさい」
 「それじゃあ……」
 こんな調子で週末の予定を組み立てていく。
 アルはこれがデートのスケジュールだという事に気づいているのだろうか。
 聡明な彼女の事だから、分かっていて乗っているのかもしれないし、男女の事にどこか疎いアルだからこそ、本気で分かっていないのかもしれない。
 だとしても確実なのは、きっと今度の週末は楽しい時間になり、そして待ち遠しい物になるだろう。
 「どうしたの? 笑っているけれど」
 「それはアルもな」
 「見間違いではなくて?」
 そう言いつつも、アルの表情はほころんでいる。
 今こうしてお互いに繋がりを持つ事。
 それが僕にとっての理想の繋がりなのかもしれないと、出会った頃より柔らかさを増した彼女を見て、ふと思った。
 
 
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